踏みにじられる「人権」

自己中心的で自由な一言

人間として「幸せ」に生きていくための権利。

私はそう思っていたのだが学べば学ぶほど長く生きれば長く生きるほどそれは「土足で踏みにじられる」と感じる。

それはあくまで「私の思う」ものだろうが「まとも」さえ望んでは生きていけない時代になったものだ。

考えればすでに若いころには「人権」は踏みにじられているわけであの時「まとも」な生き方を望んで相談しに行っても窓口で断られた。

忘れもしないし忘れない。「働けば?」ではない「若いんだから身体売れば?」みたいなニュアンスで言われたことも確かだ。

「コンプライアンス」法的順守。

私がそれを学ぶきっかけは10年以上前の中小企業のサラリー時代だ。

正確に言えば「言葉」を覚えていてさわりの部分だけだが世の中に「コンプラ違反」という言葉が出回り始めたころだったように感じる。

その時の私はすでに荒んでいて「なにを今更」という感覚もあり黒に近いグレーな会社に勤務していたし「法を知るものこそ法に救われる」と取って付けた考えの生き方で学ぶことはしなかった。

そして現在は過去を振り返りながらもなんとか顔を上げて未来を見ようとしている。

何度も書くがこんな希望のない未来を残してはいけないと動いてはいても小さな楔にもならない。

悔しく悲しみに暮れることはあるが、私の行動に失望することはない。

誰にでも「幸せ」に暮らす権利がある。

今それを踏みにじっているのは紛れもない「法を踏みつけにする」連中だ。

そして「人権」を簡単に脅かす法を制定し施行する連中だ。それを逆手にとって強行する連中だ。

私は私のために声を上げていく。

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