最近、少し考えていたんだ

負け犬の遠吠えは見苦しい

もうすぐこの「自己表現」の「自己満足」ブログを始めて3年になる。

始めたきっかけのひとつは54歳で逝ってしまわれた漫画家・三浦健太郎さんの訃報だった。

私も若いころは恐ろしく無謀で烏滸がましい考えの持ち主で「いつかはお会いしたい」とその高みを目指していた時もある。

三浦健太郎さんが亡くなってからは「私もなにかなにか継いで繋いでいきたい」と何十年かぶりに絵を描き始めた。

マイペースながらもなんとか描き続けてあの頃の情熱にはおおよそ届かないが最近なぜかふと少しだけ「漫画家さんの死」を想像し始めていた。

私の世代の憧れた漫画家さんがこれからもっとどんどん亡くなったら私はどんな気持ちになるのだろう。

そんなことを最近ずっと考えていた。

先駆者たちのトキワ荘の面々は私にとって「世代」ではないが「時代」を作ってきた人たちなので単純にすごいなとは思う。

どちらかというと私は水木しげるさんや楳図かずおさん、松本零士さんが好きなので、水木しげるさんが亡くなったときは気持ちが呆けたし松本零士さんが逝かれたときも何か抜けた。

私も歳を取っているのだから当たり前のことなんだ「人はいつか死ぬ」と理解はしていても、気持ちはそう簡単には片付けられるものではない。

そして原動力に火をつけるべく「私の青春」はほとんど漫画に注ぎ込んでいた。最近はその時代を思い返して懐かしい気持ちに、なんとなくああだったなとかこうだったなと思い返していた。

私の世代ではすでに「神の領域」だったのであの頃はただ模写するだけで精いっぱいの人だったし漫画は全て集めて取り寄せてもらってた。

画集やインタビュー記事をあの頃の私が出来るすべての力を使って手に入れていた。アニメグッズもアホみたいに集めていて上京した時にも全部持ってきた。

今日の訃報を聞いて思わず叫んでしまって涙が止まらない。

心が悲しみで震えている。

こんな表現しかできないが、こんなことを書いている時ではないのだろうが私だって神に憧れた一人なのだ。書いて今の気持ちを記しておきたい。

昨年あの昔の作品がアニメ映画になってワクワクした。今はそう作品には触れることは少なくなったが大きな存在だったことは確かだと感じる。

私は手を伸ばすことは出来なかったが崇めていたことは確かだ。

あのお方は「神」になったのだ。

「神」を信じない私がこんなことにをいうのは安く薄っぺらいものだが今はそう思うことで今はなんとか保てている。まだ気持ちがぐちゃぐちゃでまとまらない。

「ありがとう」とかの感謝とか「お悔やみ申し上げます」「ご冥福を」とかそんな言葉でまとめるのも私の中でなんだか違うような気がしてならない。

「神」に向かって最低で無礼でどんな目線だよと思う言葉使いなのは承知である。

私の恥をさらして書いておく。

鳥山明よ、永遠であれ。

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