頭の悪い「会話」

自己中心的で自由な一言

人様のことをとやかく言う立場ではない。

私も大概「声が大きい」が一部の若者の大声での「会話」は場所を選ばず貞操観念のない馬鹿丸出しだ。

大事なことだから私の記憶に残るように何度でも書く。貞操観念だ。

私も若いころはあんな風だったのかと思うと「ああ」となり気恥ずかしい。

「生き様」というのは「いつなんどきに」現れるものだとつくづく感じる。

私も今でもそうやって「恥」をばらまいて生きているのかと身を一瞬だけ引き締め、忘れる。

こうやって歴史は繰り返していくのか。

不満を共有し、まるで全員がそう思っているかのように当事者ではないものを責めるように聞こえるように大声で何ら恥ずかしげもなく声を大にして言う。

いじめっ子が良くやる手法で聞いていて不快だ。

「若さ」を鼻にかけ横柄な態度でものをいう。

注意をしないのは「猿には何を言っても言葉が通じない」という私の考えと、日本のお伝統お家芸の「ババアの嫉妬」と言われるからだ。

何度となく私もこの歳で言われ慣れたが気持ちの良いものではない。

今では「仕事場は動物園」と着眼点を部分的に変えていることもあり一旦「わずらわしい」棚に置いておけばネタになる。

「我が身」を振り返るように一部の若者たちの「頭の悪い会話」を聞きながら自滅を眺めることを趣味にでもしようかと考えた。

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