探る「器量」と自ら求める「度量」

自己中心的で自由な一言

見なかったことにしたいというのが本心。

「生きる」というのはこんなにも「政治に関わる」ということに結びつくものだと知らなかった。

はるかに私の「器」を超えてしまって毎日気持ちが食中毒になっている。

小学校の時から周りに否定されることが多かった私はいつも「疑問」に思っていた。

なぜ好きなことをすると否定されるのか。

その「疑問」が「学問」に変わっていれば今より世界は開けたかもしれないし視野は抜群に大きく変わっていたかもしれない。

とか思っているうちは私は「成長」しない。

あの時の行動ひとつひとつが私の欠点だけではなかったといえるのは今だからだ。

今でもそんな過去の記憶を掘り起こしていると食傷気味になるが、私自身これから生きるヒントが掴めるかもしれないと可能な限り思い出そうとしている。

今の私は自分で考えて発信する力が欲しいから、文法がめちゃくちゃで前後不覚でも自分の気持ちを正直に書くようにしている。

そうでなければこんなことは出来ないと最近は感じ始めた。

だって見なかったことにしたいんだもの。

蓋を開けてみれば私の今の「器量」では処理しきれないことが多すぎて吐いてしまいそうなんだ。

だが操り人形でいたくはない。たとえ届かなくても「おかしいものはおかしい」と言い続けたい。

「使命感」など遂行なものでなく疑問を流すことなく追っていけば私の答えは少なくても見つかり、まだ足が進められる。

今は私自身のためだけになっているが、いつか誰かのためになることを望んでいる。

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