罪を憎んで人は憎まずは過去最高の綺麗事

長文

私は大学も出ていないし肩書も持っているわけではない。

人を裁く権利もないし表立って他人を弁護するような力もない。

ただこれだけは自分の中ではっきりしていることがある。

この世に正義はないということだ。

屁理屈なのだが、罪とは人間が決めたものなのやはり罪を犯した人間は憎むべき対象である。

罪を犯した人間は改心するしないの論争はいつ何時の時代でもあるが、私の中では「ない」だ。

暴論だとしても私の中の経験則ではそうなのだからこれはブレない。

私は法がなかったら計画的か衝動的か能動的に行動しているタイプだろう。確実にやっている。こんなことばかり自信がある。

私には世の中殺してやりたい人間はごまん以上にいるのだ。

もちろん私も誰かのその対象であることだろう。

インターネットが発達したこの時代は罪が暴かれやすくなったのが私にとっては良かった点だと思う。

数十年前までは隠されていたものがどんどん表立っていく。ただ残念なのは情報が回りすぎて罪が人のうわさより長く続かないことが多いことだ。

一生消えない情報がネット上には残されるのにいざという時には忘れ去られている。

そして人間は同じ罪を何度も重ね改心はしない。

改心を望んでいたり人間は変われるという幻想を持った人間も私にとっては犯罪者同然だ。

私はかつてネットスラングでいう正義厨だった。

弱いものを助けるのが当たり前だったし、戦うのも当然だった。悪に対して負けようが何だろうが這い上がった。

ただそれは自分が純粋無垢でまっすぐ突き進めただけにすぎない頭の悪い馬鹿だったのだ。

この世で生きていくためには賢くならなければならない。わかっていたはずなのに賢くなるための手段を探す力がなかった。心底自分を信じる力がなかった。

かといって今賢く生きているわけではないと思う。こうやってインターネットに自分の考えを、ちょっとした危険思想をだらだらと述べている限り賢くはない。

馬鹿は罪なのだ。

そして今日も馬鹿をさらして罪を重ねているにすぎない。

小学生のころ友人に誘われて「日曜学校」に行った。

聖書の教えは私にはよくわからなかったのに毎週通った。今でもその教会の場所や建物を覚えているがなぜ行っていたのかさっぱりわからない。

きっと「隣人を愛せよ」と本当は教えたかったかもしれない。

とりあえず好きなアニメのセリフでもお借りして魂がささやいていたことにしよう。

私にはこの思想は合わない。

なぜならそれがキレイごとだと経験して自分の中で理解したからだ。

だから私は人を恨んで憎んで生きていく。

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