まだある「余裕」への渇き

ほとんど毎日

今はまだある「余裕」は明日には次の瞬間には失ってしまうかもしれない。

私のいう「余裕」の第一は「お金」だ。

「お金」の話をするのは三流以下とかなんとか言われることもあるが、庶民底辺には「切実」な問題である。

大して稼いでいるわけでもなく最近は買い物もするにも当然のごとく一瞬手に取るのを迷ってぐずぐずして買わないことも多くなった。

スーパーをうろうろしながら「ああでもないこうでもない」と財布と相談しながら買い物をするのはよそから見れば笑えるのだろう。

だが世の中はそういった意味では「余裕」がないことも知っているので堂々とすることが大事だ。

散財する「お金」はないがまだ私はご飯が食べれている。贅沢はできないがスーパーの寿司ぐらいは買えている。

こんな生活はいつまでも続かないと思うのは私は何度か「生活苦」に落ちたからだ。

落ちた理由は様々だが「ご飯が食べれない」状況というのは変な方向に人を強くもするし、思いもよらないことで弱くもする。

そしてこの年齢になってやっと「油断しない」ということも覚えた。

この生活は私がやっとたどり着いた「幸せ」の形でもあるが、いつだって足元はぐらついている。

「お金の余裕は心の余裕」

「自分の金は自分で守る」

「お金の世界は甘くない」

この数年何度も繰り返して言い聞かせてきたがまだまだ私は「お金」に関して緩い考えだと思い知らされることがある。

あの頃のように「完璧」を求めているわけではないが根についた性分はなくなることはない。

いっそ振り切って欲深く「お金」に執着してみてはどうだろうか。

「お金」は決して善でも悪でもない。

私が自分の度量以上のお金を手にした時の行動はどんなものかと人生で試すべき時期にきていると思うのはきっと気のせいだ。

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