「ありきたり」なストーリーを紡ぐ

自己中心的で自由な一言

私は大きな本屋が近くにないのもあるし老眼が進んでもっぱら本は「電子書籍」を読むのだが「ストーリーはありきたりだが」こんな評価が書きこまれている時がある。

私はいつだってこの言葉にもやもやする。

「ありきたり」の何がいけないのか。そういう自分はその「ありきたり」の物語さえ描けるのかとつい突っ込みというか余計な一言が私の中で巡る。

「0から1を生み出す才能」が自分の中に備わっているのか。

物語には先頭を切って培ってきた土台の上に「新しいプロジェクト」が組み込まれて「1から着想を得てリスペクトをし数えきれないほどの昇華した作品が多くある」のが正解だと思っている。

それをずっと後世に紡いでいるのだ。

だから作品を生み出す者たちはそんな先人たちの思いに「自分の思い」を作品に乗せ紡いでいっているような気がするのだ。

まあ、これも私の意見だから「ありきたり」で片づけられるのだろう。

わたそはその「ありきたり」の中にいつも何かチャンスがあると思って行動につなげていっているので、いつものペースが乱されるのは気分が良くない。

身近な事で満足を得られないようになってしまった過去の自分への「注意喚起」でもあるから私は「ありきたり」を大事に紡いでいきたい。

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