「憤り」と「怒り」の先に

「血のつながり」という妨害者

父に対しての「怒り」を少なからず言葉と行動にして「何か」が自分の中で生まれてきた。

「達成感」とはちがう「見えないものへのチャレンジ」でもない。

ただ「自分の親のことは、自分で決める」という覚悟だろうか。

ここ1か月半、施設に入れるのか生活保護にさせ一人暮らしをさせるのか兄弟姉妹で様々な事で行動してきた。

厳密にいえば今年から自分なりに準備を進めてきたつもりだったが詰めが甘く大混乱となった。

私の暴走が生み出したものとだと感じ反省し形を変え行動を示している。

問題は山済みで特に優先事項は「とにかく兄とそのお嫁さんから父を離す」ことだ。

このたった一つのことさえ第一に「お金」がからみ、疲れている。

自身の出せる金額も限界がある。 

そして父を「恨む」ことに執着し時間を使うので私の中で進んでいない。

私は正直介護はプロに任せることが大事だと思っている。私自身ももしそんなことになったらプロに任せたいし、今からそういう知識を積んでいっているつもりだ。

最終、自分は死ねば良いと思っている人間だからそんな難しくは考えていない。

だがまだ足りない。

嫌いな人間に労力を使うことは本当に心からウンザリしてこの手で殺してやりたいとまで私自身を何度か追いつめた。

「父」など私にとっていらない命なのだよ。

だからこそ、いまは少し向き合えたのかもしれない。

私は「父」が目の前で「死」を間近にして恐れる顔を見たいのだと究極に感じる。私の心の歪んだ種が大きく育ち実っている。

人は追いつめられると何をするかわからない。私の場合はこんな思考に思いを落ち着かせるしかないと感じる。

不誠実な喜びが自分自身を支配していくのが分かる。

今度の私の誕生日プレゼントは「父の死の報告」であって欲しいと思うまでなるのは時間がかからなかった。

ここまで思いを募らせなければいけないほどで、私はすでに見失ってはいるが補っているとも思う。

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