足腰を鍛えるのは「徘徊の準備」

ほとんど毎日

先日、実姉と電話での会話で「年寄り」が無意味にほっつき歩く理由に納得がいった。

姉は姉で凄まじい人生を歩み積み重ね、元からの性格も相まってとてもパワーがある人だ。

パワーがある人と会話するにはこちらもパワーをつけた状態でなくてはならない。

姉と話すときはいつも腹に力を入れる。

私は年寄りは嫌いだ。

職場にも面倒な年寄りは多いし街中で上品な高年齢な人間は、少ない。

事実、良い思い出があっても実父実母ともに早く死んで欲しいと思っているし、私も自分が自分で無くなりボケて生きていくなら「死のう」と思って生きている。

父と母のこともそうだが、体力のある間にすべてを終わらせたいというのがひとつの理由だ。

キレイごとで済まされない未来があるのなら、私の手で堂々と終わらせたいのが望みだ。

私は「美しいまま」や「誰にも迷惑かけたくない」とか「プライドが高い」よりも「自分の命は自分の自由に使いたい」のである。

介護現場を見ていて思うのだが「して頂く人」の自由や幸せを奪っているようにしか見えないし感じない。

私にその人たちの「幸せ」を奪う権利はない。

「奉仕の心」「慈愛の心」を踏みにじるような生き方をするくらいなら、死なせてください。

だがもっと歳を取れば醜いくらい実父と同じくらい「生」と「性」にしがみつき最後まで駄々をこねるのだろう。

だってあの父の子供なんだもの。

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その時になってみないとわからないのは重々承知だ。

ただ私はいつでもその心持で覚悟していたいだけなのだ。

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