「怒り」のコントロール

ほとんど毎日

これが出来ない人は「病気」「痴呆」「障害」を疑われがち。

すべての「怒り」がコントロール出来ているかと思えば「不満」という形で近くの他人を攻撃するのは、ただ名称が変わっただけの「怒り」

「怒り」は「経験不足」にも例えられるが経験したって理不尽な事には怒って良い。

まずその「怒り」はなぜ起こっているのか。

まあ感情に任せている私には、その場ではほとんど判らないのだ。

そして後々、気が付く。

あの時の怒りが「正しいのか正しくないのか」

どちらかに振り分けると危険性が増すのだが、まずはそう考えてそこに私の考えを置いてから「全体的」に見る。

自然にそういう「癖」になっているので、その場での言い返しが攻撃的な時の方が多い。

その場の言い返しは私が「そうする」と決めているので問題ない。吐いたツバを飲み込むこともあるが煮え湯を飲まされ泥水を啜って生きていた時代を思えば私のツバはキレイなもんだ。

火傷を覆うことなんて「いつもの」事だし、恥をかいてかかされて生きてきた。

それは今でも変わらない。

「怒り」はなぜ起こるかなんて難しいことは考えても私にはきっと意味はないだろう。私には必要な原動力。

そして感情のまま怒り狂うことはないし。後々の反省も出来ている。

とりあえず気に入らなければ一旦「私の目の前で首をくくって死ね」という脳内フォルダに一旦入って振り分けられることは確かだ。

私は自分の「嫌い」に自信を持っているのだ。

そんな感情の中まとまりもなくグルグルと脳内でかき回し、紙に書きだしても整理もつかないが「点と点」は思いがけない時につながることは知っている。

「怒り」は魂を揺さぶる一つの金槌だと思えば、私の書く文章にも少しは張りが出るだろう。

もっと私らしい言葉が出るように。

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