「公序」と「秩序」

自己中心的で自由な一言

すっからかんで根本が抜けている世の中だと感じる。

振りかざす「正義」は「目に見えるもの」だけを対象とし「その裏」や「その根底」にあるものをさし記すことはないようにも感じる。

だって人間は「わかりやすいもの」を叩きやすいもの。

みんながやっているから安心して、みんなとおなじことするもの。

馬鹿を馬鹿にするのとお笑いを笑うのと同列で「目に見えるもの」に感情的になり、皆の意見と同じが安心するために「公序」と「秩序」の根本が抜けていっている。

私もそんな自分が「いる」から嫌になる。

「流される」自分が過去にも今もあるし、これからだって「ない」とは言い切れない。

ここからいう「余裕のある人」は「お金がある人」のことを示す。

「余裕のある人」は下々の行いに問いに「無責任」に「答え」を出す。

有名になるとそれは世の中に影響を与え扇動し「この人が言っていることが正しい」とまでなる。

その人間の娯楽エンターテインメントだと判断できず楽しめない知識不足の連中が多く集まり「カルト宗教」みたいな団体になるから恐怖なのだ。

人が集まるって本当に怖い。

「余裕がある人」の言葉に賛同しすぎて「本質」や「根本」が見えなくなる人間が多く集まる場所は恐怖を感じる。

私も「巻き込まれやすい性質」だから目を薄く開けてみるように癖つけている。

私は「感情的」になりやすいから集団の扇動「挑発」に手を突っ込まないように足を踏ん張る。

私自身「自分で考え行動できる能力」は「余裕のある人」と比べ大いに劣るし、低収入の壁から抜け出せていない事態で答えは明白だ。

「経験」しかない私はその自身の判断を一度しっかり掘り起こしてみるしか「手段」がない。

戦慄の「寒気」が体に走るとき、私の本能を一度信じる。

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