不動明王「誰かが」

自己中心的で自由な一言

「誰かがやってくれるだろう」

自発性、積極性に欠けるとかなんとか。

たぶん「自ら動かない人」は「諦めている人」か「割り切っている人」で「仕事で自ら動いたら怒られた」という記憶が備わっているんだろうと思う。

その上「自発性に欠ける」とかなんとか言われてバカみたいな尊敬できない上司や上役に言われた経験があるんだと思う。

だから「諦めた」

そんなことの多い社会に「希望」など見出せるわけがない。

もともとそんな性格の人もいるだろうが、これは「悪い日本の歴史」で変えようとすると何億倍の「理路整然」と並べられる知識と行動力が必要だと感じる。

私はそんな人になりたい。

だが実際はその足元に及ばない「馬鹿」であり憧れるちっぽけな人間だ。

だから身近なところで鍛え実践していく。

世間で言う「誰でも出来る仕事」と言われる非正規で従事している時点で「偏った見方」をすれば「誰でも出来る仕事」ではない。

「プロ意識」を持つほど給料は頂いてないので「搾取」されないように「ある程度」こなす。仕事はこんな意識のもので良いと私は思う。それ以上やったら自分が潰れると過去の私がいつも警告を鳴らしているからだ。

だが「私事」については違う。

些細なことでも「率先」して動く。

たまには次の日にしてしまうが私も「調子が悪い」「気分が乗らない」日だってあるが、それでも、やる。

ここでいう率先して動く「場面」は「共同」で使用している場所のことだ。

「私事」にも「線引き」は必要。

更衣室のゴミを掃き集めて捨て、トイレのつまりを直しトイレットペーパーも補充し、洗面台もきれいに磨く。

「誰かがやってくれるだろう」は「誰もやらない」のだ。

「私がやり、それが当たり前のようになっても困るし嫌だ」という人の意見もわかるが、私はそれに逃げてしまうと「過去の自分」で自ら考えて動けない私に確実になるから、したくはない。

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