神を置かずに立つ

ほとんど毎日

昨日の続き。

私にとって「初詣」は「決意表明」だ。

「抱負」と言わないのは文字に「負け」が入っているから変なプライドで言いたくない。

毎年なんだかんだ神社に行って今年の「決意」を述べる。

昨年は調子が良かったせいもあるだろう。

いい気になって「神などいない、ばかばかしい」と思いながら向かった神社にたどり着き、順番を待ちいざ賽銭を投げ入れ柏手を打とうと思った瞬間に、そんな気持ちはしおしおに萎えた。

いきり倒して、すみません。

霊験あらたかとかそういうものでなく「信仰というのは大事だな」というのを改めてその場で知ったからである。

神に保証を求め、便利な自販機にするところだった。

私自身、神様を信用していない。

世の中の不公平や不平等、不条理が全力で私に体当たりしてきてすべてを奪った過去がある限り、私は神を信じていない。

努力も善意も関係なく無くなった。

神は見ている、意味があるなんてものは私にとって「二次被害」で慰めのひとつにもならない。

だからと言って今は信仰を否定しているのではなく「安易な意味づけ」を拒否している。

世界は不公平で、救済が保証されないのなら「私は私に嘘をつかない」

自分がどうあるか。

そこを投げ出さない限り私自身の中に信仰があると今はそう感じる。

それは傲慢でも虚勢でもなく現実を経験してきた「結論」

私なりの「誠実」の形だ。

怒りも不信もなげて神社を目の前にして世界と断絶できない「弱さ」を確認し、私の言葉で地面に立つ。

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