実は「自分に都合よく解釈できる」人って周囲の人間のことを置き去りにしてでもポジティブなんだと思う。
度を越え行き過ぎたものには「うっとおしい」より滅亡してほしいくらいなものになるが、気分が落ち暗くなって助けてほしい時には「救い」になる。
結局は「受け取り方次第」とか何とかで私次第か。
どれだけ歳を重ねても「元が馬鹿」の私には過ぎたる材料になり無限の記憶の棚に放り込んで埃をかぶる羽目になる。
せっかく「良い明るい経験」してきても「暗く重い経験」には敵わず台無しになることのほうが多くて「私の人生は何なんだろう」と決着させようとして座り心地が悪い。
「解釈の違い」は人の数あれど「私は私」の解釈で良いことは分かっている。
それをじっくり考える能力がない私には何を発しても「浅い」方に振り分けられて気が落ち着かない。
私は毎日こんなにも一生懸命なのにとかは常に思わないが、時々は強く思う。
毎日の出来事を「都合よく」私自身が納得するようには解釈は出来ない。
時間は止まらないし私を平気で置いてけぼりにしていき即判断を求められそして迷いつまずく。
私は私のペースで良い。
何度もそう口にしても気は流行る。
一生そんなものだと感じても焦りは治まらない。
もっと贅沢に「私であること」を求めたい。
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